「教会に命を与える聖体」
十勝4教会主任:中村道生神父
去年の7月、十勝地区4教会の主任神父代理として任命を受けた時に、
「新しい福音宣教を目指して」という表題で、この「教会だより」を書
いたのですが、この4月新しく主任として任命を受け、あらためて「新し
い福音宣教を目指して」いく思いを強くしています。 フランシスコ教皇
はその使徒的勧告「福音の喜び」で、『新たな福音宣教は、信者に生ぬ
るい、あるいは教えを実践しない者にも新しい福音の喜びと、福音宣教
の豊かさをもたらします。事実、キリストの死と復活において、ご自身
の限りない愛を示された神が信者をいつも新たにしてくださいます。ど
れほど老いても「新たな力を得、鷲のように翼を張って上がる。走って
も弱ることなく、歩いても疲れない」のです。』(「福音の喜び」11参照)
3月21日、札幌教区に新しい司祭と助祭の叙階式が行われ大きな喜びに
包まれました。このとき読まれたヨハネの福音書(15,9-17)で、「父が
私を愛されたように私もあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。
...私の喜びがあなた方のうちにあり、あなた方の喜びが満たされるため
である。...互いに愛し合いなさい。これが私の命令である。」と、イエ
スは弟子たちに言われました。このイエスの言葉ほど、助祭に、そして司祭
になることのもっとも深い意味とその素晴らしさを伝えるものはないのでは
ないでしょうか。そしてまた、この言葉こそ「新しい福音宣教とは何か」を
もっとも良く表していると言えるのではないでしょうか。
「友のために自分の命を捧げること、これに勝る愛はない。」と言われた
主イエスは文字通り十字架の死を通してすべての人に復活の命を与えられま
した。司祭はこの愛、この愛の命を叙階の秘跡を通して豊かに与えられたの
です。そして司祭はこの「キリストの愛」を毎日のミサのなかで教会のため
にそして、全世界のためにキリストによって、キリストと共に父なる神にさ
さげるのです。 教皇ヨハネパウロ二世は回勅「教会にいのちを与える聖体」
(31)の中で、『この牧者としての愛は「とりわけ聖体のいけにえから流れ出る
ものですから、ミサを捧げることは司祭の全生活の中心であり、根源です」。
そのことから、公会議の勧めに従って、司祭が毎日感謝の祭儀を行うことがど
れだけ大事かわかります。それは司祭の霊的生活のためだけでなく教会と世界
の善のためにもなります。なぜなら、たとえ信者が列席できなくても感謝の祭
儀は、キリストの行為であり、教会の行為だからです』と述べておられます。
私はこの叙階式にあずかってあらためてミサの素晴らしさ、
大切さに気付かされました。私にとって「新しい福音宣教」は
ミサから始まり、喜びの福音を伝える力をいただき、すべての
人をミサに招くことに他なりません。単に洗礼志願者のためだ
けでなく、司祭志願者のためにも祈っていきたいと思っています。
そして信徒の皆様も主日のミサはもちろん、機会あるごとにミサ
にあずかり、ご聖体の前で「キリストの愛」に出会い、祈られる
よう心からお願いいたします。