みこころの思い

  イエスのみ心の信心は、特に聖マルガリタ・マリア・アラコック(1647-90)がみ心の信心についての啓示を受けて17世紀にフランスで広まりました。イエスは私たちを極みまで愛しておられるのに、忘恩、不敬、さらには冒瀆、冷淡、無関心しか受けていない。これを償い、主の愛に答えようとして「初金の信心」などが行われるようになりました。さらに、1856年に「イエスのみ心」の祭日として、教皇ピオ9世によってご聖体の祝日後の金曜日に全世界で祝うことが定められました。

 

 しかし、最近の教皇はイエスの愛について、そのいつくしみを体験し、常に観想するようにと勧めています。教皇ヨハネ・パウロ2世は2000年から、ご復活の主日の次の日曜日(復活節第二主日)を「神のいつくしみの主日」と定められました。さらに、教皇フランシスコは2015年12月8日、無原罪の聖マリアの祭日から、2016年11月20日、王であるキリストの祭日までを「いつくしみの特別聖年」と定め、勅書「イエス・キリスト、父のいつくしみのみ顔」を公布されました。その中で、「ナザレのイエスは、そのことばと行い、そして全人格を通して、神のいつくしみを明らかになさいます。 わたしたちは、つねにいつくしみの神秘を観想しなければなりません。いつくしみは喜びの源、静けさと平和の泉です。いつくしみは、わたしたちの救いに不可欠です。」と述べておられます。

 

 私は、自分の信仰生活を振り返ってみると、公共要理や聖書の勉強会などで、イエスの教えやみ言葉を頭で理解して伝えてきただけで、喜びに満ちた生き生きとした確信からではありませんでした。それは神の愛、慈しみふかいイエスの思いを心の深いところでしっかり受け止め、生きてこなかったからだと反省しています。

 

 私は公立高校の入試に失敗し、かなり落ち込んだわけですが、なんとかキリスト教の私立高校に入ったのがきっかけで、毎週チャペルで礼拝の時間があり、牧師先生の話を聞くことになりました。チャペルの柱に掲げてあった、「汝の若き日に、汝の造り主を覚えよ」という聖書の言葉を今でも覚えています。高2の春でした。特別伝道集会に参加した時に聞いたヨハネ3章16節の言葉が深く心にしみました。「神はおん独り子をお与えになるほどこの世を愛された。」この時から、毎週、日本基督教団の教会に通うようになり、若い牧師先生の聖書の勉強会にも参加しました。 60年前の体験は私なりに、神の愛、神の慈しみを味合わせていただいたのだと思います。

 

 しかし、聖書の分かち合いだけでは物足りなく思い、中学の時の友達に誘われて、カトリック教会に通うになり、カトリック要理を学んで「天地万物の創造主、全知全能の神」を頭で理解することに興味を持ち、教皇が言われるように、「わたしたちは、つねにいつくしみの神秘を観想しなければならない」のに、「いつくしみ深い神」の御心に触れることよりも、外面的な活動傾いてきました。

 

 先日、十勝の牧師会の集まりがあり、牧師先生方の心温まる分かち合いにふれ、神の愛、聖霊の交わりの中で祈りあう素晴らしい恵みの時を与えていただきました。