新しい出発・新しい巡礼!?

 先日、千歳・恵庭の教会から50名近い巡礼団が帯広教会を訪問された。巡礼と言えば、ローマとかイスラエルの聖地巡礼をすぐ思い出す方が多いと思います。聖母が出現されたルルドやファチマ、さらにはまだ公認されていないがメジュゴリエなどが聖母の巡礼地として有名ですが、日本でも長崎や、広島などをはじめ、聖母の巡礼地としては津和野や秋田の聖母がよく知られています。韓国からは、おたあジュリアの流刑地、神津島「ジュリア祭」に参加する巡礼が評判のようです。

 

 教皇フランシスコは、2015年12月8日から2016年11月20日まで、「いつくしみの特別聖年」を行うことを発表され、これにもとづき札幌教区では7つの教会が指定巡礼教会に定められ、帯広教会もその一つに選ばれました。しかし3年前のことですから、そのためわざわざこの教会に巡礼団が来られたわけではないと思います。その理由を聞いたわけではありませんが、ただの観光目的でないことは確かでしょう。教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」の中で、「出向いて行く教会」となるように強く勧めておられます。神はアブラハム、モーセ、エレミヤなどを呼び出し、新しい土地に遣わされましたし、新約においてイエスは「私は宣教する。私はそのために出てきたのである。」と告げられ(マルコ1,38)、弟子たちを選び、さらに、全世界に遣わされました。隣の教会を巡礼訪問することも、新しい出会いや体験となり、新しい繋がりができ、「出向いて行く教会」の新しい巡礼のあり方といえるのではないでしょうか。

 

 私は司祭になって10年目に日本26聖人がたどった京都から長崎までを巡礼したことがありますが、その後韓国に出かけることになり、そこで一人の「歩く僧侶」と出会い、韓半島を一緒に一周する巡礼をすることになり、多くの人と出会いました。その時出会った韓国の青年と共に、東日本大震災の半年後に仙台で一緒に支援活動をすることになりました。最近は高齢化に伴い体力勝負の巡礼は無理だと感じ、「新しい巡礼」、神の国を目指した心の旅を模索しています。ひらたくいいますと、そろそろお迎えも近づいてきたので、その準備もしなければと思っているわけです。

 

 17日の主日の第2朗読(Ⅱコリント5,6-10)で、聖パウロは「私たちは天に永遠の住みかが備えられていることを知っています…体を住みかとしている限り主から離れていることも知っています。…信仰によって歩んでいるからです。」といっています。

 

 信仰の歩みで、まず第1に考えなければならないのは祈りのありかたです。人間関係でいえば信頼関係ができているかが問われますが、神様との関係でいえば信仰関係がちゃんとできているかが問題です。神様が憐れみ深い方でいつも私たちのことを心にかけてくださっていることは確かですが、私の方は神様のことを優先しているかを考えると、はなはだ問題です。スマホ、パソコン、TVの前では時間の過ぎるのも忘れ、集中していますが、神様の前にいるときは、すぐに心を散らし、祈りはいつも早く済ませてしまおうと考えています。「心を尽くし、力を尽くして」とありますがなかなかできません。最近、「教会の祈り」で、申命記1,31の言葉に出会いました。「人が自分の子を抱くように、あなたの神、主はあなたを抱かれる。あなたの歩むすべての道で。」